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(updated:'07/7/31)

 

 

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  • シャドウ(影): shadow ('01/01/21)
  • 母と身体と食物と大地 ('03/11/09)
  • こころと身体の関係と運動の効用 ('07/07/31)
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    シャドウ ('01/1/21)

    シャドウ(影)の話しをしようと思う。
    心理学でいうシャドウとは、意識の光りのあたっていない、自分から見てまったくの死角になっている部分のことをあらわす。 もし人格が月のように見えたならば、太陽の光が当たっていない部分は陰になり、一見存在していないように見える現象に似ている。

    ダーク・シャドウとゴールデン・シャドウといわれる場合があり、前者は自己の人格の中で未発達で粗野な醜く暗い部分、後者は非常に進化し洗練された部分である。シャドウとは、善い意味でも悪い意味でも、世界を仕切る常識からどちらもひどくブッ飛んでいる。人々はそれを自分自身であると認めるのを恐れて、顕在意識に登らない場所にそれらの人格をしまいたがる。実際シャドウはポジティブにもネガティブにも、可能性の宝庫でありパワーの源である。しかしこれが一気に解放されては、人間のこの肉体が維持できかねない状況に陥ってしまう。シャドウとのつき合い方は、そこに意識の光りをあてその可能性を開発し、安全な方法で使いこなしてゆくことだ。

    ダークシャドウには、適切な浄化とその幼稚な人格を再教育し、その人格が本来もっているポジティブなエネルギーを建設的な方向へ鼻を向けてやる必要がある。ゴールデンシャドウには、その信じられないようなすばらしく美しい人格を現実世界に体現させる必要がある。どちらの作業にも、こころと身体の器の強化と拡張工事をしなければならない。

    ...........というわけで理論的に理解をしていても、シャドウという奴は自分にはなかなか見えにくいからシャドウというだけのことはある。自己観察と精進を怠ると、日常生活のさまざまな状況で納得できないコースからシャドウの攻撃を受けることになる。 特に自分のダークシャドウは、招かれざる客として嫌われる。それらはたとえば、職場や家庭で日頃あいつだけはどうしても嫌だという人物だったたり、寝耳に水的な事件として現れたりする。もし嫌いなあいつと同じような性格を自分がもっているなどと可能性を考えるだけでも身の毛がよだつような場合、あいつの性格嫌いと思っているまさにその部分が自分の性格を鏡に写 してるだけということがある.......。  

    2回以上類似する型の事件が起ったら、シャドウからの攻撃を受けているか否か検討してみる価値はある。関係する相手の責任を問うよりも、自分の中でなにか見落としている部分がないかどうか、状況を引き寄せた責任は自分にあるのではないかと・・冷静に観察してみることは、自分の成長にとって糧になる。ただ世の中には、ホントに飛んでもないことをしでかしてくれる人もいるので、そおゆう人は単に避けるだけでよいという場合もあるので、その辺の判断は良識の範囲というのは大前提。

    また自分のシャドウからの招待状を見分ける2つ目のポイントは感情。つきあいも浅く相手をよく知らないにも関わらず大変誇張された感情を感じるとき、その相手に見ているものが自分のシャドウである可能性が高い。たとえば「相手がなにげない態度や言葉に異常なほどムカつく(いわゆるスイッチを入れられてしまった状態)」もしくは「相手のすべてが非常に素晴しく感じる」とか。ある特定の精神状態のときに、特定の動物と印象的な出会いを何度もするとか。人から、同じようなことで何度もお叱りを受けるとか。いつも男性(女性)との関係で同じよう事が起こり同じような結果になる。いずれにせよ、不快感や高揚感、驚きなどの感情に訴えるインデックスが付いている。

    よくあるパターンで、ムカつく相手のムカつく部分を自分のなかに探してみると、照合できる部分があったりしてギョットする。今は出現していなくても、将来的に出現する種(たね)的人格が、眠っている場合もある。このような状況の場合、自分のなかでは最も認めたくない人格を目の前の相手が演じているのだから、見ているほうは辛い。なんとか相手を自分の視野の外に、押し出そうと気が狂ったように躍起になる。しかし大抵この努力は失敗する、相手が運よく自分の視野からいなくなったとしても、自分の中の影は相変わらず存在しつづけているわけで、この場合また違った相手が同じような影を鏡のように写 してくれる型で登場する。相手変われど、主変わらずだからだ。

    また恋愛を観察してみると、訳もなく素晴らしくみえる相手というのは、自分のなかの光り輝く面を体現してくれる人物として相手を認識している。自分の中に「私なんかじゃダメ、私がこんなにスバラしいはずがない」という無意識の自己否定が自分の優れた性質を閉め出してしまっている場合、都合よく表れた相手に自分の理想を生きてくれるように、自分を託してしまうことはよく起こる。

    どちらのケースも自分のエネルギーと可能性を、目の前の相手に明け渡してしまっている。暗いシャドウからの招待状は一見、どう考えても相手の責任だろうというパターンが多い。そのため人は、ひどく取り乱して「これは私の責任じゃないのよ」と過剰防衛な否定モードに陥る。心理的な傷や痛みも絡んできたりすると、完全に我を忘れて相手を殺害したりとかするから、ますます状況がこじれる。

    しかし不思議なことにシャドウの人格を自分で受け入れて安全に使いこなせるようになると、招待状は届かなくなる。以前は苦手だった人物や事象を、苦もなく受け入れて受け流すことができるようになったり、まったく相手の存在が気にならなくなる。

    話は横道にそれるが、人間のコミュニティでは、自分を相手に写さないと自分がなかなか見えないということもあって、この「映し合い」という関係を使って自分を洗練させようという方法が好んで使われる。けれどこの次元だと、相手はただ自分を映す鏡に過ぎず、本当の相手の素晴らしさや貴重さは見えていない。自己の中の悪魔も天使も全く割り引くことなく、自分のものと認めることができるとき、悪魔には執行猶予と保護観察を天使には自己尊重をもって、それらの存在を安全に納められる、より大きな自己の器を確立できる。この段階ではじめて、他の存在を善も悪も掛け値なしにすべてまるごと、受け入れることができるようになる。

    話しをもとに戻そう、シャドウからの招待を理不尽な攻撃と受け取るまえに、一度自分を自分自身の鏡に映してみる習慣は、意識の進化に非常に役立つ。自分が見ていた影が実は自分の姿だと気づくことは、ときに非常な辛さをともなう。プライドや理想の自己イメージが崩れることに、ものすごく抵抗が起きるので、普通 の人はここで完全な自己責任の否定「この事件は全部あなたの責任でわたしは被害者。わたしは良い人で悪魔はあなたよ!」と全責任を相手に投影する。責任を放棄して一時的に辛さをやり過ごす。自己責任を受け入れることは、ときに怒りや恥じ、敗北感など想像を超えるひどい感情を味わう。そのプロセスをくぐり抜ける時「この事件を引き起こした責任はわたしにも有る。あなたはわたしの一部でわたしもあなたの一部。わたしたちの間で起こったこの事件をわたしたちの間で清算し2度とこのようなことが起こらないようにしましょう。」
    この事実に気付くとき人は謙虚さと自己に対する慈悲を学ぶのである。

    シャドウの存在を人々は時に怖れ嫌い恥じらう。しかし本当の意味で自分に責任をもつことで、私たちが自分だと思っている自分の限界をこえることができるとき、シャドウはもはやシャドウではなくなり人類の可能性の宝庫に変わる。

    最後にひとつ提案をしたい。世界中で起る可能性のある小さな喧嘩や国どうしの戦争は、お互いのシャドウの責任のなすり合いが原因だ。相手にされたこと言われたことを、そのまま相手に返してやりたいと思うような争いの場合、この事実に気づいた側から、立ち止まって相手に心を開くことができないだろうか?血が流れ、命が失われているような場合、簡単にできることではないけれど。先に相手を許すことで、自分を許すことができないだろうか?憎しみは憎しみしか生まないけれど、許しは平安と癒しをもたらす。

    許しとは、いい加減さや弱さからは生まれない。自分の生身のハートを、自分が傷つくかもしれないリスクをおかして相手に対して開くということだ。世界中でもっとも静かで聡明で、強い意志と勇気を必要とする行為である。

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    母親と身体と食物と大地 ('03/11/9)

    摂食障害では、なぜ母親との心理的問題が異常な食行動に結びつくのか?
    長い間この関係がいまひとつよくわからないと思っていた。
    この障害における心理的問題について覚え書きを残しておこうと思う。  

    摂食障害では食物で母親を代償した食行動が起きるといわれている。 しかしながら「なぜ母親と食物は関係しているのか?」

    ここで母の象徴について説明しなければならない。
    母という陰のシンボルの対極は陽の父となるが。この世界の事象を「天と地」「太陽と月」「陽と陰」「火 風 土 水 」という概念でみてみると、母のシンボルは陰であり「地」「月」「陰」「土 水」を象徴するものとなる。

    その性質をあえて限界を恐れずに 言葉でその一端を表すならば 「受動」「生む」「育む」「守る」「恒常性」となる。その逆の性質は「能動」「破壊する」「制限する」「攻める」「変化」などだ。  

    漢字では身体を表す文字は月という文字が必ずふくまれ肉月と呼ばれている。ここでは月のシンボル(身体)は母とイコールになる。

    このようにシンボルという概念からみてみると、母というシンボルは大地とイコールであり、物質としての身体や身体を作り出す食物も間接的にイコールとなる。

    摂食障害で食物が母の代償となるのは、この関係性からみると理解することができる。

    では「なぜ異常な食行動が母親との問題に関係しているのか?」

    生まれたばかりの子供が自分自身の存在を自分として認識できるようになるには、生後2〜3年の時間が必要である。

    最初は母親と自分の区別がない。生まれたての子供が母親に向かって手を伸ばし、全身でママ好きよと表現したとき、母親が子供の表現している愛を映すかたちで応対すれば、子供は「ママに手を伸ばしたら(自分が愛を表現したら)ママが優しく笑って抱きしめてくれた。」=『自分が愛を表現すると世界は愛で答えてくれる』と認識するようになる。
    もしこのとき母親が子供の表現しているものを映さないかたちで応対した場合、子供は「ママに手を伸ばしたらママは無視した。」=『自分が愛を表現すると世界は自分を無視する』と認識するようになり、この子は将来愛を表現することを意図的に避けるようになるか上手く表現できなくなる。 自分が暖かいものを世界に提供したのに、その答えは冷たいものだったという経験は子供にとって自己の魂という感覚に混乱をもたらすことになる。このようなことが何回も起こったとしたら、やがて自分の本質を見失ってしまうだろう。

    このように母親から未分化の生後2〜3年の子供は自分の魂の本質を母親の応対をとおして学んで行く。母親が子供にマッチしたかたちで応対していれば、子供は自己の本質を見失うことなく認識できるようになる。このように自分自身の核ともいえる魂の本質の感覚をこの2〜3年の間に身体感覚を伴ってしっかりと身に付けた子供は、将来自分自身と自分を取り巻く世界を満足して受け入れる土台ができる。 やがて健康的な自己認識をもって自分で自分の世界を膨らませてゆくことができるようになる。

    このような経験をすることができなかった魂は、自分という存在を非常に辛いかたちでしか認識できなくなる。たとえば自分が愛を表現しても世界は何も返してくれないと信じるようになり、疲れ果てて2度と愛を表現するのは止めようと決意する。すると世界は増々冷たくなってしまったように彼(彼女)には見えるようになり1人ぽっちの寂しい世界に引きこもるようになるだろう。

    ここでは自分という存在の貴重さやユニークさを自己の身体感覚として学ぶことができない。そのため常に自己の存在の核の部分の認識が不安定で、自己のアイデンティティという感覚(自分は何が嫌いで何が好きかとか、自分を維持するためには何が必要で何が必要でないかをはっきりと認識できる・・など)を持つことができなくなってしまう。

    自己という存在は、絶えず他によって形作られるものだ(自分の価値は人の評価によって決まると思っている・・など)という認識をともなう。

    しかし核を持たないという状態は、人本来の姿ではなく この地上に転生してきたことによって生じた着心地の悪い服のようなものだ。人は自分自身のなかに本当の自分が住んでいることを知っている。着心地の悪い服を着ているが、何かが違う何かが足りないと本当の自分が耳もとでささやくのだ。

    このような心理状態が、食物を使って不安定な核を補償しようとするとき摂食障害が発症する。ここでは激しい渇望と拒絶という混乱した感情が表現される。

    拒食の場合は自分のなかの柔らかい女性性(受け身であること、リラックスして身をまかせること)を嫌い拒絶する。自分を取り巻く環境はもちろん自分自身の身体まで、全てを自分の意志によりコントロール下に置くことができたとき、自分は完全であり母親と自分自身の女性性に降伏しなくてすむ。また自分自身を飢えさせることによって母親を傷つけることも密かな目的になっているかもしれない。食物を口にしその滋養を受取ることは敗北以外のなにものでもないのだ。

    しかしここでは有機的に発達した自我が自己を安定してコントロールするのとは違い、母との関係性のなかでいびつに歪んだ自我の意志が自己を無理矢理コントロールしようとする。このような自我は堅く非常にもろく時に残虐でさえある。ここには母に降伏することは安全ではないという恐怖と怒りとプライドの問題がある。

    また過食の場合は、与えられることのなかった優しいもの(安心、安全、栄養、これも母のシンボルが象徴するもの)への渇望を満たすため、不安定な自己を守るために手近にある食物を口に詰め込むという行為が始まる。渇望をうめると同時に大量 の食物を噛み砕き飲み込む行為により、隠された攻撃性も代償されている。

    しかし生体が受入れることができない膨大の量の食物は、嘔吐という形で吐き出され拒絶されるのである。求めながら拒絶するという葛藤は、激しい自己矛盾と自己嫌悪をともなう混乱を引き起こす。ここにも恐怖と渇望と怒りと恥がある。

    これらはいずれも本当の自分を求める魂の叫び、狂気をともなう激しい感情の表現である。

    地球上のすべての命は母という存在をとおして自分を確認し育つ。魂には母の存在、自己を育む大地の存在は不可欠である。生命を維持するために絶対に必要なものが欠けている時、命は全身全霊をこめて自分の必要を叫ぶのだ。

    また摂食障害の症例では、グランディング(地に足をつけること)ができない、故郷(家)を持てずさすらう、身体を傷つけるなど・・の問題を同時に経験している場合が多い。 このような問題に共通の特徴は、確固たる自己の核が未成熟という点である。

    これは明らかに母親のシンボルと共通の性質を持つ「大地」、「家」、「自身の肉体」と自己の間の心理的問題である。母親との問題はその入り口ではあるが、 おそらくその原初にはライフタスク(代々家族や民族に受継がれた世代を超えた課題)が存在するだろう。いわゆる人格障害ボーダーラインパーソナリティの問題と密接な関係があるように思われる。

    人格障害についてはこれ以上の考察は他の機会に譲ることにする。

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    こころと身体の関係と運動の効用 ('07/07/31)

    ※トラウマサバイバーズユニオン会報2007年5月号に掲載

    わたしが、トラウマが身体に細胞の記憶として刻まれているという事実を身をもって体験したのは、ヒーリングスクールの1年生のときでした。 授業中、母との関係をクラスメートと先生たちに話した記憶があります。その後、短い休憩時間があって、しばらくして突然、背中に劇痛が走ったのです。

    授業の内容とは、まったく関係なかったのですが、先生に、背中が痛い痛いと訴え、・・これはいったい何ですか?と困惑しながら訪ねたことを憶えています。 先生は、しばらく考えて、今これをやる時間があるかなぁ・・と言い。授業の残り時間を気にしながらも、わたしの背中の激痛を解きほぐす、いわゆる”プロセワーク”(その痛みは、叫びと慟哭になり、身体から解放されていきました)を手伝ってくれました。

    わたしの激痛は、その数十分まえに母のことを話したことが引き金になって、トラウマが身体の痛みとなって、表面 意識にのぼって来たものでした。身体の痛みが、古い記憶の叫びと涙とつながった、初めての不思議な経験でした。

    身体は、言葉では表現できない、無意識の領域の記憶を憶えています。

    もしも、その記憶が辛いものだった場合、身体の関連部位には、何らかのトラウマの痕跡が残っています。
    たとえば、筋肉の硬直、脂肪による不自然な肥大、血流の悪さからくるその部位 の冷たさ、脆弱な骨格、内臓器官の何らかのトラブル、ストレスに弱い神経の構造などなど、さまざまな身体のジェスチャーとなって、トラウマは身体に表現されています。

    わたしは、こころと身体の密接な関係を自分の身体をとおして学んできました。
    最近、わたしがたどり着いた結論は、こころは身体を寸分たがわず映す鏡であり、身体もこころをそのまま映す有機体であるということです。そして、相互に影響を及ぼしあう関係にあるのです。

    ですから、心理セラピーのアプローチとして、言葉のコミュニーケーションからだけではなくて、身体からもこころにアプローチすることができるのです。

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    ここで、トラウマと神経系の関係について、もう少しくわしく書いてみることにします。

    さまざまなトラウマは、身体の細胞の記憶となって刻まれると前のセクションで書きましたが、同じようにトラウマは、神経系の構造にも影響を与えます。

    これは有名な実験ですが、生まれたばかりの猿を親から離して育てると脳内ホルモンのセロトニンの分泌量 が、普通に母子同室で育てた猿より圧倒的に少なくなってしまいます。これは、セロトニンを分泌するセロトニン神経が成長過程でうまく育たなかったからです。
    このセロトニンの研究では、明らかに生育歴中のトラウマが、神経の構造をつくりあげる段階で多大な影響を及ぼしていることがわかります。

    脳の中では、百を超える脳内ホルモンが、さまざまな脳の代謝活動に関与していますが、セロトニンの例でもわかるように、トラウマが脳内ホルモンを分泌する神経細胞の成長を妨げる。この事実は、他の脳内ホルモンの神経細胞でも同じように起こりえることだと簡単に想像できるのではないでしょうか。

    セロトニンは、最近研究の内容が発表されていて有名なホルモンの一つですが、その働きのひとつに、ドーパミンと拮抗して働くというものがあります。セロトニンの分泌量 が少ない脳は、ドーパミンによって興奮しやすく、また一度興奮すると鎮静しずらいという傾向があります。

    脳の中で、このホルモンのアンバランスは、後天的に、アディクション(嗜癖)を起こしやすかったり、ウツに陥りやすい、不安になりやすい、パニックを起こしやすいなど、さまざまな問題の温床になってゆきます。

    では、すでにそのような神経構造を持っている人はどうすればいいのでしょう。

    セロトニン神経の研究では、リズミカルに繰り返す運動は、ホルモン分泌量 を飛躍的に増やすことがわかってきました。 また、セロトニン神経節のある脳の部位 が、交換神経の神経節の近所にあることから、抗重力筋(背骨を支える身体の軸になる筋肉)を動かすようなエクササイズでは、神経節が物理的、神経反射的に刺激され、結果 としてセロトニンの効きの良い構造に神経細胞が変わっていくことが確認されています。

    また、運動により脳内の血流量が飛躍的に増えるので、バランスが悪かった脳の代謝活動が劇的に改善されます。そのうえ、さまざまな脳中の老廃物の排出機能も格段にアップし、クリーンな脳内環境をつくることができます。
    運動の効果は、快楽ホルモンであるエンドルフィンの分泌も促進させるので、爽快感とともに奥深いレベルから神経をリラックスさせることができます。

    エクササイズが、毎日の日課として身に付く過程で、自分の身体の違い心持ちの有り様の違いに気がつくようになります。 エクササイズの習慣は、特にご自身の神経系のアンバランスな行動(深い呼吸ができない、すぐに眠れない、興奮しやすく沈静しにくい、アディクションの症状があるなど・・)に心当たりある方にはお勧めです。

    お勧めというよりは、この習慣を獲得するかしないかが、心理的健康管理に大きな影響を及ぼすことはいうまでもありません。

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    最後に、エクササイズとそれに対する心理的抵抗について書きます。 定期的に身体を動かす習慣のない方が、エクササイズをはじめると、今まで意識にのぼってくることを避けていた辛い身体の記憶がよみがえって来ます。

    これは、身体のさまざまな部分の痛み、時には頭痛や吐き気までともない、言葉ではいい表せない感情の波に非常に耐え難い心理的状態になることがあります。

    これは、金魚鉢を掃除するのに似ています。エクササイズによって、いままで沈んでいた澱がかき混ぜられて、一時的に水が濁って向こう側が見えなくなってしまうような現象と思ってください。

    しかしながら、この壁を乗り越えて運動をつづけると、身体はこの心理的および肉体的老廃物を体外に排出します。

    ですから、 エクササイズを初めて、最初、多少辛くとも、しばらくつづけてみてください。 つづけてゆくうちに、こころと身体が確実に変わってくるのです。

    軌道にのってくれば、快楽ホルモンが分泌され、快感がエクササイズへのモチベーションを支えてくれます。

    またまたセロトニンの研究からですが、セロトニン神経の構造は、週3回 30分のリズミカルな運動を3ヶ月間づづけると変化してきます。運動の継続が脳内ホルモンの分泌量 を増やしその効力をアップさせることが実験で確かめられています。

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